名言「せっかくだからに決まってるじゃありませんか」「時は来た!それだけだ!!」紹介します
背中を押してくれる言葉って大事。
先生という職業柄、四字熟語とか偉人の名言とかを心に秘めとくべきなのかもしれませんが。
私は、空気読めないし、偉い先生のようにはなれないので。「べき」なんて知るかー
今、私を支えて背中を押してくれるのはタイトルの二つ。
「せっかくだからに決まってるじゃありませんか」
ご存知、ワンワンのBS番組。
メイちゃんにムチャブリしたときのほのぼのパパの名言です。
人生を揺るがす名言だと思いますw
こんな広い宇宙、遥かな時間。命を得てちっぽけながらも生きてることが凄い奇跡。
身体が生きてるから生きようと決めた私にとって、人生はせっかくだからの賜物です。
思う通りのことも、思い通りにならないことも、せっかくだから過ごすの。せっかくだから楽しみたいし、せっかくだからもがきたい。
そうしたら全てに感謝できるかな。なかなか出来ないけど。
自分でコントロールすることもあるけど、出来ないこともある。せっかくだからって受け止めたい。全部引っくるめての「今の私」を、私自身くらいは認めて応援しないとね!
「時は来た!それだけだ!!」
dボタンで遊ぶきっかけになったこの番組。
水曜日のコーナー終わりに蝶野さんがカッコよく決める一言。
これはがーんときました。
私は前任校の時から、教材研究がギリギリまでかかるタイプで。
仕事を後回しにするつもりはなくて、何ならいつでも考えてるんだけど。直前にならないといい案が出てこない。
いい案が浮かぶ(私は「降りてくる」と呼んでる)前は代替案も考えるし、降りてくればその準備だし。
朝までかかるし、休み時間もやることも。
で、半ば時間切れで、生徒の前に出します。
クオリティには気をつけるけど、でも、いつも、もう少しよくできるんじゃないかと思えて、後悔を重ねてる感じだった。いつまでも教材研究しなきゃって危機感もあった。(教材研究好きだからいいんですが)
そして、この言葉に出会ったら。
軽くなったんです。後悔が。
最上の方法ではないけど、私の持ちうる全ての中でベストを尽くした。後ろめたいような、残念なような思いは消えないけど、「それだけだ」って言われたら、気兼ねなく次に進もうって思えた。
多分この仕事をする限り、最上の授業はできることはないな。だって、いつだってより良く出来るはずだもの。と、諦めとも自信とも言えない覚悟もできました。
特に「せっかくだから」と「それだけだ」、オススメですw
勝つ理科と楽しい理科。選ぶなら、失敗も成功も、何でもとりあえずやってみる理科。
今朝、仕入れた情報で。
うーん、と考えてしまいました。。。
この「生産性に関する本をブログで紹介した」その記事を見て、私は早速ライングループを全無視(既読にするのは誰かの前で)することにして。
時間は短くなったものの何かを捨ててる気もして、自分らしいバランスを模索しないとな、と思ったところだったのですが。
※こちらの先生のことを否定非難その他ネガティブなメッセージを書きたいのではなく、「私と先生の立場や考え方は違うんだと思った」くらいに読み取っていただけたら。
勝つ理科=理論重視、試験対応。楽しい理科=実験重視、と仮定してみると。
私は、勝つ理科も楽しい理科も伝えられない。
私は、学会の先生にも塾の先生にもなれないし、でんじろう先生にもなれない。
なりたくないというと負け犬だけど、そして負け犬なんだけど。
私がなりたいものは私が教わりたい先生だ。
実験もやるけどテストの点も取れるのがいいのだ。
実験は代表者だけだったり、範囲だからと言ってみたことない問題が出て来るのはイヤなのだ。
実験はやるならみんなで。試験は見たことあるものから。この気持ちが私の教材研究を支えてくれます。
私が思う理科は。予想とか色々するんだけど、上手くいかず壁にぶち当たってもがいて。みんなで寄ってたかってやる割に、早い者勝ちで権力者優位で。時間が腐るほどかかって。実験ノートは真っ黒なのに世界の微々たるものしかわからなくて。でも出た成果が現実に応用でもされた日には飛び上がるほど嬉しい。そういう、実は人間性の巣窟。
自然なり宇宙なり、全てのものは人間の与り知らぬところで回ってる。理科はそれを知りたい「人間が勝手に作り出した営み」なんじゃないかと思ってる。
単に、試験で点を取るとか、遊びで楽しい不思議だとか、そういうのでは完結しないような。
うまく書けないなー。
理科がそういうものだから。理科の授業でも、試行錯誤も、トライアンドエラーも、ありだと思うのよね。
マニュアルを学ぶとマニュアルから離れられない。
楽しさを経験せず、あんまり失敗させるとやる気を失う。
もっともだと思うんだけど…こう、勝つか楽しいかにこだわらず肩肘張らずに、生徒さんにいろいろあげて、こうなるらしいよ〜さぁ頑張れ〜というのでは、ダメですかね?
実験上手くいって喜ぶ生徒さんの姿、とても見たいんだけどさ。でもそれを完璧に追求するのは私にはまだ現実的ではないような。
テストの点が取れて嬉しい生徒さんの姿、とても見たいんだけどさ。それでテストを易化(「いか」って読むんだ!)するのも、定期テスト以外が上手くいかなくてもいいのも、違うよね。
そこが、先生の考え方の違いと予算の都合の分かれ目ですかね。あと私の場合は、力量と準備時間の都合も込みで。
バランス難しい…
やりたいことで、やれることをやるのみか!
手話ソングに対する個人的な意見。
テレビを見てたら、講演講師に歌を送る段で、手話ソングを小学生が一生懸命やってました。
手話ソングご存知ですか?
聞いてるだけだと普通の歌。歌っている姿を見ると、何かしら身振り手振りしてる。
それ手話なんだ。
だから手話ソング。
普通の合唱より見栄えがいいですね。(先生のミカタ)
手話が入ると激ムズ。(生徒のミカタその1)
聞こえなくても伝わるね。(生徒のミカタその2)
私は前任校の時にやっていて。(←音楽主担当)
歌わない子や歌が嫌な子に、身振り手振り習得風にやると、音楽に興味が持てる…という、逆の効果を感じて入れてました。私の場合は、手話習得は入れてません。
音楽をいろんなやり方で楽しませたい、というのが、授業設計の基本にあって。あくまで「やり方」の一つ。
そこで、私にとって素朴な疑問が…
「聴者に、聴者が、手話ソングを表現する意味って何だろう。」
かつて、私が学生だった頃。
免許のための勉強で触れた「障害児教育」。 ←しかも、単位を落とさない程度に不勉強&欠席
ざっくり5種の障害種があるとして、そしてそのどれもが大変だと承知の上で、その中で「ろう」が一番楽なんじゃないかと思ってた。
だって、筆記すればいいし、字幕あるし。手話は大変そうだけど。
その当時、突然声が出なくなる芝居をしてたので(ユーリちゃん♡懐かしい)、特にそう感じたのかもしれない。
今は、そう思っていたことを悔いてる。
特に子育てを経たからなんだろうけど。
人が育つ上で、言葉があることを知らないっていうのは、知識が無いレベル以前に極限の孤独。努力しないと刺激が得られない…というか刺激?ナニソレオイシイノ?状態になるわけで。
例えば私がブログを綴るように、他人に働きかけて何かを伝えたいと思うかどうか。自己の確立というか、人格形成というか、基本中の基本になる「自分探し」が超大変だと思う。
だから、本当に、幼少期からの療育は大事。
自分以外の認識が出来たとして。
自分と外部の調節を、うまくしようと思うだろうか。一部「ワガママ」で片付けられてた状況を思い出す。
普通の人間だから、普通に反抗期とかの発達課題を越えていくわけで。私の周りには障害者=「いきなり迷惑な行動してくる、そうじゃなくても、何しでかすかわからない怖い人」と「サポートを常時受けてるだけあって、常に謙虚で。感謝で。なのに出来ることをいつも一生懸命頑張ってるから、こちらも勇気と感動」の極端な二択で捉える人が多いけど。そうじゃないよね。いろんな人がいるよね。
手話なり口話なりの技能、だけじゃなくて、その根底にある日本語というものの習得は、聞かない以上難しいはず。
ヒアロスってアプリを手に入れて、いろいろ聞いたんだけど。聞こえるにも幅も種類もあるから、感音性とか泣きそうになった。主人の声より赤ちゃんの声の方が重要なのに!←私には!
障害受容の壁だって厚いよね。外見からは分からないから、心無い輩から被害にあうことも多いだろうし、もしかしたら被害にあってても気づいてないかもしれない。
この辺の山を越えて、聴者文化に親しんで、音=振動…以外の歌を一緒に楽しみたくなって、やっと手話ソングなはずなんだ。
ろう文化にも、そこに立つまでに、尋常じゃない苦悩がある。
他の障害種でも、同様の、そして特有の厳しさはあるから、どれが楽とかないって。
私は伝えたり文字にして文化を楽しむことに親しみがあるから、「伝えたいと思わない」「言葉を持たない」そして「自分が社会的にも精神的にも閉じこもり状態になる」ことはとても怖い、辛いと感じた。
当事者の知り合いはいないし、机上の勉強と大学や初任研の実習をもとに推測で書いてます。ごめんなさい。
でも、この場合って。
そういう推測さえなしの、即、手話ソングじゃないですかね?
私は、知ってる一部の先生がそうだからといって、「小学校の先生は、使えるものは何でも使うよね」という偏見を持っています。だから「ノーマライゼーション教育だし、見栄えするし、合唱にちょっと足すだけだし、良さそう」と取り入れてるように見えてしまいます。
それ、必要なのかな。
少なくとも今回の、聴者が特定の聴者に、聴者の作った曲をプレゼント的に聴かせたい場合、私には手話をつける必要がわかりません。
生徒への負担感も結構あるんですよねあれ。ちょっとじゃないんだよ足すの。言葉だから間違えられないって思うしね。だったら違う所に時間かけるなり、時間返してあげるなり(休み時間にするとか)。
手話ソングである必要が、しっかりあるなら別にいいんです。テレビからそう読み取れなかっただけなんです。こんな戯言無視してください。
もし、何もないなら。そこに曲があるから、手話があるからやっただけなら。
せっかくだから、推測もしてみません?
ろう文化。
ろう者のしんどさ。
そしてそれは、本人の「意思」とは無関係。
そしてそれを、克服したり改善したりする人の強さと協力、絆。テクノロジー。知恵。
そしてそれを、自らにその問題がないからという、一部の人間の浅はかさ。融通きかないな。心の余裕がないな。たかが聞こえるだけで高慢だな。
あ、もちろん、障害者だから不都合いっぱいで不幸だなんて思いません。すごい人も幸せな人もいっぱい。聴者にも、不都合いっぱいで不幸な人も多いだろうしね。どこまでも、みんな同じ、でも、人による、と思ってる。
私も一生勉強中だし、よりよい自分になるために精進します。しなきゃ。まだまだダメだわ。
勉強って、基本的には「せっかくだから」でやるものだと思うんです。
ほのぼのさんも、なにかと「せっかくだから」って言ってましたw
←日曜朝のBS3気に入ってます☆
クロージングトーク。私にとっては何だろう。
最近、私の中で、起業者向けのセミナー講師さんが流行っています。
知り合いのパパが、というのは内緒のきっかけw
この業界、面白いですね。
決して私からのおすすめではないのですが、ご縁あってエッセンスを見させていただいてるのは以下。他にもありましたが切っちゃいました。これらをチェックするのも3月まで、そして無料の範囲でチラ見するだけと決めています。
集めるのではなく「集まる集客®」を科学式にー起業家のビジネスプロデュース:株式会社アクティブノート | 集めるのではなく"集まる"へ 起業家を勝たせるActive-iWeb戦略
再度ですが、決して私からのおすすめではありません。そもそも私とは逆の考え方の方もいらっしゃるようですし。
あと、上記にアクセスの際には、
♯毎日無数のメルマガが届くこと、
♯万ではなく数十万レベルのセミナーに誘導されることもあること、
♯類似の広告が常に表示されること、
♯おそらく顧客リストとしてメアド等個人情報を抜かれていること
等を覚悟の上でお願いします。良心的な方ばかりだとは思いますが、商売というものはわかりませんので、念のため。私には責任が取れません。
私にとって、商品は「理科を勉強すること」(理科そのものではない!)、顧客リストの人は「生徒さん」と読み替えるととても面白いんです。
商品の背景は誰でもその価値を認めるもの。
だから、背景から、必然性をもっての、商品、その価値(有用性)を正しく伝えなきゃダメ。あと、その価値(値段)の正当性も。
(←絵描きさんのツイッターも参考になりました)
顧客リスト…は、学校だと当てはまらないか。集まってる・集めるより、求められる方が良いなぁ。
でも、顧客リストの人が全員顧客になる=商品を買う訳ではなく、購入に至るための話術=クロージングトークが必要!
メディアの類で間接的にでも伝わるかもしれないけど、正しさを担保し、実物や、熱意みたいな空気感で伝わるモノを大事にするために、対面での販売経路が大事。セミナーとか。お話会お茶会とか。
顧客がモデリングするために、自己実現は必要。だから、ありとあらゆる手段で狙う。
顧客の不安払拭のためにも、複数のアクセス窓口が必要。フェイスブック、ツイッター、ブログ、ホームページ、メールや電話やファックス、SNSツール(私はLINE)。ただし、それぞれの特徴を活かそう。
…耳がいたい…
理科を伝えることはあっても、理科の「勉強」を伝えられていたかな…?
窓口は、かなり整ってきましたw
あと数日しか残ってないけど、無理のない範囲で勉強しよう!
※スルーしてください【記録】セミナーに関する覚書。H2901版
(1)今の危機感▶一応教育者なのに、うちの子供を守れないんじゃないか。
(2)私が伝えたい気持ち▶みんな頑張れ。自分なりに、自分の役割の中で。
(3)好きなこと▶チョコレート。コーヒー。ガム。ネット。子どもの立ったままor座って抱っこ(腰が痛いので子どもを持ち上げたくはない)。匂いや触り心地最高。教材に関する妄想。ものを本来の使い道以外で使うこと。日常で出会ったものを、何でなら使えるって妄想を膨らますこと。
(4)私の意思▶キャリアも捨てない。子どもも捨てない。日々接する小さいことも捨てない。
ママとお仕事。保活&学童の目処がたちました。
夜中のテレビタイム。
うぉ…10年前なんて、余裕で仕事してたし。がっくり。
先週学童の説明会があり(6年まで、希望者全入)、今月中にでも保育園結果がでます。
学童は、うちの子の学年だけ、別の場所になるらしく。紛糾。変わるということは大変だね。私は預かっていただくことがゴールなので、何も言えません。そして現場はいつも大変です。お疲れさまです。←指導員さんも教え子の保護者w
保育園の方は、第一希望の保育園の、中の子の年齢クラスが二次募集してたので。新設で募集があるだけ、今年は恵まれてた。激戦下の子も兄弟枠で優遇されるんじゃないかな。
これで、その園に入らないとしたら、どれだけ嫌われているのか…
まだ、どちらも正式通知がないとはいえ、何とかなりそうで、ホッとしてます。
あとは私だな。
人事。異動したくないな。こっちに来た時は、退職届は2月。具体名が出たのは卒業式直前だった。まだ先。
人事定まったら、配置か…どこになるやら。
1年副担がいい!
あと、できれば、教科は学年で持たせてください!
吹部副か水泳引率あたりで…でもバド主のまんまかな…。
んー。無理ゲー。w
ところで、私自身が好きな分野フルタイムで働くこと前提で生活してるのでアレですが。
今の私の周りには、「園の時間に合わせて働くママ」がかなり多くいます。
いくらの壁っていうのを超えないように。園行事に参加しつつ、延長も使いつつ。調整は激ムズのようです。
でも、多分住まいがフィルターになってるせいもあるんだけど。生活に困ったりカツカツだったりは、してない。
原動力や仕事観って何なんだろうな。
聞ける範囲では。「少しでも家計貢献」「家にいるのもね」「外の空気を吸いたい(社会に接点が欲しい、みたいな)」「時間的に都合がいい仕事は限られる」「仕事が忙しすぎるのも、厳しすぎるのも、パートとしては辛いな」「パートの立場だと、ものを言いにくいこともある」「時間で切って仕事をするって、なんか寂しく感じることもある」「結局は人間関係次第のところがあるかな」
…ということは、きっと。主婦層は宝の持ち腐れ多いんじゃないかな?
私の見立てでは、独身時代バリキャリだろうなって方。が、単純作業とか補助とか言ってるの、私には何だか勿体無く感じるの。仕事を辞める経緯が結婚や出産だから、おめでたいにしても、消化不良な感じが残るというか。
独身時代や、まだ子どもがいなかった時とは、同じ働き方出来るわけない。
でも、気持ちはあの時とあんまり変わんないんだよね。むしろ、子育てをはじめ人生経験積んだんだから、できること増えてる感ありそう。主に時間により、そして悲しいかな加齢により、出来ないのにね。
だから、ここ数ヶ月の私は空回りしそう。
パパの稼ぎや勤務時間次第で、進んで専業主婦になる人もいると思う。
だから、この時代なら働き方を変えるとか、働く価値観を変えるとか、パパに変容を促すことは出来そう。
そしてその変容は、会社や社会も(長時間労働の見直しとかで)同時に動くのであれば、イクメンを推奨するよりは価値があると思う。
てゆーか体面上表面上の「イクメン」去れ。
家族を養うこと、金銭面的に支えること。
働くことってそれだけじゃなさそう。じゃなきゃ、いろんなリスクを冒してまで働かないよ。本当にママたちは頑張ってるんだよ。
仕事して忙しい中、家事育児とか家族単位で回す雑務もやるし。仕事を価値付けるママもいるから、その微妙な関係もこなしてるし。(ママ友みたいな社会的なところで、パパ同士とは比較にならない面倒くささじゃないかな。ママたちの「比較」…マウンティング?は、私には恐怖ですよ…。)
私は好きなことを仕事にした派なのでアレですが。
本当に感謝しかありません。なかなか出来ないけど。
コミュニケーション下手な私と同僚性。
私は、多分コミュ障ではない…と信じたい。
(コミュ障=他の人との関係も自分本位で、他人から煙たがられたり疎まれたりする、でOKですか?)
ただ、メチャクチャ下手です。コミュニケーション。
空気が読めないし、何か言えば日本刀だから(それもやっと自覚した)、極力何も言わないし。
表情は、大学の演劇でマシになったけど人並み以下。何考えてるか基本わからない。
そんな私が、よくやらせてもらえたなぁ、と思うのが、特別支援教育の現場。
クラスを3人の担任でみます。
その学級3人、学年の6〜10人、学部(私は中学生対象なので中学部)20人ほど(もちろん変動あり)の先生方で、いかにして学校生活を回すのかが二番目の大きな課題。
←一番は生徒対応ですもちろん
大人で、20代から50代(仮)までがその人数集まれば、まあいろんな人がいるわけで。
小さいけどクラスを想像していただけたら。
合う人、合わない人、いるでしょ。
グループ、できるでしょ。
まあいろいろでしたw
つるむの苦手で若手な私はまぁ適当にさらさらしてた…はずですが。
どうもダメだった。
トイレでわーんと生徒相手にぐちぐち言って、男子トイレに筒抜けでw、とかいろいろしでかしましたが、
一番そのキツイ時に同じクラス担任だった先生がいました。
前年のことを踏まえて見守っててくれました。
組んだ年は、私がちょうど結婚する年でもあって、先生は結婚して一戸建て検討中だったりして。結婚は墓場だそうでしたw
先生は、今でいうツンデレ…私とか話しているとサバサバしてるのですが、生徒対応とか教材見ると、生徒に対する愛しか感じない先生で。放課後なんか見てるなーと覗くと(覗くな)専門書で勉強中。でも家の土地がーとか誤魔化してる。生徒話を振ると、絶対に善循環を巻き起こすモーター役な感じでした。
サバサバ部分だけみると、なんかとっつきにくい気もするけど、会話じゃない部分で、信頼感というか、職業柄の専門性というか、通じる部分があるんですよね。
生徒のために、自分の持つものを出し合えるし、それを信頼できるのが、私にとっての同僚性。
この先生を思い出すと、楽しかった思い出と同僚性の記憶が一緒にぶわぁっと溢れます。
この先生に限らず、どの先生もみんなすごいなーって思うから、せめて、一緒に担任してた先生だけは、年賀状だけでも挨拶できたらと思ってる。
…前の学校はね。
今はどうなんだろうか?
さっき、私が学童の手続きで勤務先に行ったら、校長が、〇〇先生って知ってる?年賀状やり取りしてるんだって?とその先生の名前を出してきて、長研に行ったり転勤したりと忙しく頑張ってらっしゃる話をしてくれました。
超嬉しくて、うっかり爆買いしそうなので真っ直ぐ帰ってきてカキコ。朝カレーしてよかった。
それにしても、うちの子が入学する直前までの小学校校長=元上司が、学生時代の先生知ってたり。教師の世界は狭いですねw